ヒメオドリコソウ:
今年もこの季節が来たのかと、ハットさせられる。すそが緑、頭が紫、そのグラデーションがなんとも美しく、オシャレだ。おまけに頭の帽子に羽飾りのように、淡いピンクの花をいくつか付けている。まさに踊り子か、それとも春のただ中だけに現れる妖精のようだ。一年のほんの一瞬、気付かなければすぐに消えてしまう美しさだ。
投稿者: 西岡 直樹
上野のシャガ谷
シャガ:
4月も半ばになると、暑くも寒くも無い。上着を着ないで自転車で散歩に出かけた。谷中、寛永寺、黒田記念館、上野公園。いたるところでシャガが咲いている。いま頃は、千葉の家のそばの九十九谷でも、このアイリスのようなかわいい花が、一日一輪づつ人知れず咲いていのだろう。
そういえば谷中や上野も房総の山と環境が似てないでもない。上野の山は大昔、東京湾に突き出た小さな半島だったそうだ。房総半島の山奥ように、ここでも木陰や谷の斜面に咲いていたのだろう。近年誰かが植えたものだとしても、この土地に合ったものを良く選んだものだ。そんなシャガは時代に負けず、強く美しくてとてもえらいと思う。
沙羅双樹いろいろ
JR日暮里駅南口から谷中霊園の方に上がってすぐ右手にある天王寺の境内に、沙羅双樹と書かれた一本の美しい木が植えられている。花はすでに終わっていたが、枝の先の方には若い実をつけた長い花序がついていた。また、千駄木一丁目にある、鴎外が長い間文学活動を続けた居宅観潮楼跡地(現文京区立本郷図書館)の庭にも、鴎外が愛した沙羅の木が植えられる。
平家物語の冒頭に出てくる沙羅双樹という美しい名をもつ木は、じつはインドに生えるフタバガキ科の常緑の高木で、仏教徒の間では、仏陀がこの世を去るときにその下に身を横たえたという涅槃の木として知られている。インドではサンスクリット語でシャーラと呼び、それが漢字で沙羅と音写され、中国を経て日本に伝えられたのだが、仏陀が身を横たえたのは、二本のシャーラの木の間だったので、沙羅双樹と呼ばれるようになった。仏教徒にとって、もっとも尊い木のひとつである沙羅双樹に馳せる思はひとしおである。とはいえ、もともと熱帯の木なので、日本のような冬の最低温度が五℃を下るような地では育たない。そこで、仏典を通して伝えられるシャーラのイメージに合った温帯の木を沙羅として植え、仏陀をしのんだのだろう。
沙羅として寺院によく植えられている木は、たいていツバキ科のナツツバキであり、観潮楼跡地の庭にある沙羅も、ナツツバキである。だが、天王寺の沙羅双樹はちょっと違って、葉や葉柄の形、枝先から伸びる花序のようすから、エゴノキ科のハクウンボクではないかと思う。オリジナルのシャーラの花を思い浮かべると、大きな花を数個つけるナツツバキよりは、小さな花を連ねてつけるハクウンボクのほうが似ていて、ハクウンボクを沙羅双樹の代理にした人のセンスに拍手を送りたくなる。しかし、葉の形に着目すると話はまた違ってくる。シャーラは、葉の形が馬の耳に似ているというので、アシュヴァカルナ(馬耳木)の別名をもつほどだが、その点では、大きさはずっと小ぶりだがナツツバキの葉は確かにシャーラの葉に似て、馬の耳のような形をしている。
インドのべンガル地方の平地林で、はじめてシャーラの花を見たときの感激は、三十五年もたつ今も忘れない。林下は強烈な春の光と甘い香りに満ちあふれ、開いたばかりの赤みあるつややかな新葉をぬって、ちらちらと止めどなくなく降り注ぐ白い花は、まるで天の神が降らせる花の雨のように思われた。しかし、その聖木も、村人たちにとってはとても便利な木で、その葉は、綴じ合わせてご飯を盛る皿としたり、くるりとまるめて汁ものや酒をつぐ椀にしたり、結婚式などのような人集まる場所の食事や、駅の飲食店などで日常的に使われている。そして、その幹からとれる樹脂は、ドゥーニーと呼ばれ、薫香として毎夕ヒンドゥー教徒の家々で焚かれるのである。この樹脂はサンスクリット語でサルジャラサ(薩折羅沙)といわれ、白膠香(はくこうこう)と漢訳されて伝えられている。また、堅くて狂いのない木材も、建築や家具材として人気が高い。
(この記事は季刊誌谷根千86号に掲載したものです)
カーディーのブラウス
カーディー, Khadi, khaddar 手紡手織綿布
ヒンディー語で手紡ぎ手織りの綿布をカ-ディ-と呼んでいる。もともと綿の生産地であったインドは、英国の支配下、綿を栽培する農民でさえ英国産の機械織綿布を着用するに至った。だが1909年ころ、インドの自治と農村手工芸の発展を推奨したガンディーは、英国に対抗して自国産の手紡ぎ手織り綿布を着用することを呼びかけた。そんなわけでカーディーはインド独立の象徴の布となったが、実際に手で紡がれ織られた布たちは、母の懐のようにやわらかく、暑い夏に涼しい。近年あらためてその素材感と着心地の良さが見直されている。(写真は千葉の工房にて)
ラックカイガラムシ染め
タラヨウ
家内が急にタラヨウの葉のイラストを描かなければならなくなった。谷中の墓地にならタラヨウはあるかもしれないと思って、二人して出かけた。このあたりにないだろうかと、谷中霊園管理事務所の前にたたずんで見渡すと、「塩谷宕陰先生碑」と書かれた大きな石碑があり、そのわきに、つやのある分厚い葉をつけた木があった。「もしかしたらあれが・・・」と、近寄ってみると、葉は両わきが直線に近い長楕円形をしており、へりに独特のとがった堅い鋸歯がある。それが、タラヨウであることをものがたっていた。もっとわかりやすいタラヨウの特徴は,葉の裏を傷つけると、その部分が褐色に変化して残り、字や絵が書けることだ。さっそく、そばにあった小枝で葉の裏をかるく掻いてみると、そのあとは黒ずんだ褐色の線になった。私たちは、あまりに事が簡単にはこんだことに、笑ってしまった。
タラヨウは、高さ二十メートルくらいになるモチノキ科の常緑高木で、静岡県以西の暖地の山林に生える。雌雄異株で、春の四、五月ごろに、葉のわきに淡い黄緑色をした四弁の小さな花をむらがりつける。そして、晩秋から冬にかけて、その枝先に目も覚めるような朱色の実をたわわにつけるのだ。その実の色とつややかな葉との対比が美しいので、タラヨウは庭木としてよく植えられるが、やはり関東地方には少ないのか、そう頻繁に目にする木ではない。
その石碑のもとに植えられたタラヨウは、かなり年月は経っているようだが、剪定を繰り返されたのか小さくまとまり、枝には実がついていなかった。ほかにタラヨウの木はないだろうかとストーパ型の慰霊碑のほうに足を進めると、高く梢を伸ばし、枝を広げたタラヨウの木があった。まだ赤くなってはいなかったが、枝の先にはぎっしりと実がついている。その木をスケッチすることにした。
タラヨウの名は、その葉の裏に傷をつけると字がかけることによっている。インドにはサンスクリット語でターラ、ヒンディー語でタールと呼ばれるヤシ科の木がある。学名Borassus flabellifer、日本語でオウギヤシ、パルミラヤシなどと呼ばれる木だが、インドでは古くはこの葉を乾燥して横長の長方形に切り、その表面を鉄筆などで傷つけて辰砂や墨などを擦り込んだり、葦ペンで文字を書いて経文などを書き記していた。そのターラの名は多羅と漢字に音写され、仏典をとおして古くから日本にも伝えられている。そのターラにちなんで、日本のこのモチノキ科の木は、タラヨウ(多羅葉)の名で呼ばれるようになったのだろう。東京国立博物館の法隆寺館には梵本心経と尊勝陀羅尼経が墨書きされた貝多羅葉が展示されている。この貝多羅葉(貝多羅は葉を意味するパッタラの漢音写で、ターラの葉をさし、転じて書簡を意味する)はグプタ後期(七~八世紀)のものだとされ、世界最古の部類にはいる貝多羅葉だといわれている。
そのオリジナルのターラの木は、北インドではごくふつうに生えている。貧乏な人にとってはその葉が便利な屋根材になっていた。私が仕事でよくいくインド東部のベンガル地方では、四、五月の花序がでるころにその先をけずって樹液をあつめ、美味しいターリー(ヤシ酒)をつくったり、煮詰めて砂糖をつくったりしている。雨季(八月)に熟すオレンジ色をした果肉からもおいしい菓子がつくられる。お酒にあまり強くない私は、その季節になるとひとりでにご近所から集まってくるタール・プルリというその菓子が、今では楽しみのひとつになっている。
東京国立博物館の法隆寺館蔵梵本心経(模写:西岡由利子)
(この記事は季刊誌谷根千85号に掲載したものです)
タッサーシルク(インドヤママユ)
丸々と太ったタッサーのイモムシが、人の背丈よりちょっと高めに仕立てられたアルジュンの枝先にとまって、数枚の葉をたぐり寄せ、繭づくりに取りかかっていた。きれいな緑色をしたその巨大な幼虫は、イモムシが嫌いな私にも、可愛らしいく思われた。タッサーシルクは、お蚕さんのように、運ばれた葉を食べて、家の中で大きくなるのではなく、青空の下で木の枝に放し飼いにされる。自由な空気が、満喫できる分、鳥などについばまれる危険性も大きく、人が棒を持って、鳥追いの番をしていなければならない。わがままな幼虫である。
繭をつくるのは冬と雨季の二回。その糸は、インドの強烈な紫外線から幼虫を守るUVカットの効果を持っており、また高温湿潤な雨季にもむれないよう通気性の良い多穴質の構造になっている。

オリッサ州ションボルプル(サンバルプル)の絣 “コトキ”
オリッサ州の内陸の町サンバルプルを歩くと、絣のサリーをまとう女性の姿を良く見かける。特にコールと呼ばれる少数民族の姿は、粋である。艶やかな大柄もあれば、重厚で落ち着いた感じのものもある。サンバルプルの絣の独特な品の良さは、このコール族の美的センスが大きく影響しているのではないだろうか。
庶民の生活の中に今直生きている、伝統染織の根深さを思い知らされる。インドの絣の歴史は古く、5~6世紀頃に造られたであろうと言われているアジャンタ石窟の壁画の中には、絣ではないかと思われる腰巻を見ることができる。現在インドの絣で有名な産地は、グジャラート州のパタンとオリッサ州のサンバルプルがある。パタンの絣は絹の緻密な縦横がすりで、“パトラ”と呼ばれる。オリッサ州の絣は、主に木綿の横がすりで(縦横もある)、“コトキ”と呼ばれている。こちらは、大柄で大胆な庶民もの的な図柄から、緻密でデリケートな高級品まで様々だ。緻密なものは品が良く、インドの綿サリーとしてはベンガルのジャムダニとならんで、最高級と言えるだろう。





