花みちくさ 身近な植物をめぐる210話

都会のかたすみで、野山や海辺で、ちいさな命が芽吹いている。折々に花や葉をつけ、実をむすび、わたしたちに四季をしらせてくれる植物たちに目をむけてみよう。そこにはゆたかで瑞々しい花や草や木々たちのくらしや、人とのかかわりが見えてくる。自然観察のたのしさ、人生を潤す植物の世界を伝える一冊。(BOOKデータベースより)

著者からのコメント
いつでも、どこにでも、傍らにいる共存者
商店街の二階の窓辺に置かれた木箱のなかで、アネモネのつぼみがふっくらと土をもちあげ、顔を出した。うつむきに曲がった花首は伸び上がるとともに上をむいて、うららかな春の日差しのなかでぱっと真っ赤な花を開いた。美しく、なんとも力強い不思議な魅力に満ちていたことか。小学校に入学して間もないあのときの感動が、植物に対する最初の感動の記憶だった。
植物に対する興味の原点は、もしかしたら自分がはじめて地上に生まれ出、呼吸をし、目にした外界への郷愁にあるのかもしれない。
宮崎県の山里で生まれ、四歳まで日向市で過ごした後、私は横須賀で小学校に入学し、中学・高校時代を横浜の伊勢崎町ですごした。家が商店だった都合上、店の発展とともにしだいに自然とは無縁な、人通りの多い繁華街で暮らすようになっていったが、それとは逆に私のなかで芽吹いた植物に対する興味は、だんだんと大きくなっていったようだ。
それを明確に自覚するようになったのは小学校低学年の夏休みの植物採集で、いつの間にか、夏休みが終わっても続けるようになっていた。大学時代を宇都宮、その後二年を鎌倉、それからインドで五年を過ごし、帰国後は東京渋谷区代々木に二年、そして葉山、房総半島と十年ごとに住みかを変え、現在東京台東区に居住にして十年目になる。どこに行っても、その土地土地の散歩や散策で出会った植物の印象は、その土地のもつ独特な風土や情緒を絡めあわせて記憶のなかにしまわれている。そしてその印象は、幼いときのものほど印象強く、大人になってからのものよりずっと鮮烈に心に刻まれている。
インドに暮らした五年間はそれまでとは少し違っていた。好奇心をあおる刺戟的な未知の文化にかこまれ、また植物たちまでもがそれまで私のなかにあった常識からかけ離れているものばかりであった。だが、ひととおり風俗にも馴染んでくると、よそよそしく見えていた植物たちのなかに、意外にも仏教をとおして昔から日本人にもなじまれている植物が多々あることを知ったのも驚きであった。
少年のころの押し葉標本作りは写真やスケッチに変わり、ときどき頭を持ち上げたり引っ込めたりしながら今も続いている。
気がつけば、どこで暮らしていても、身近に目にする植物たちは、それが食べられるとか薬になるとか何かの役にたつといった実用的な興味もさることながら、傍らに生をなす共存者として、いつも私の心の支えになっていたようだ。

本文より
スギナ(トクサ科)
子どもが三人あつまって、畑のわきの日だまりでツクシを摘んでいる。握った小さな手からツクシの頭がたくさんのぞいている。子どもたちはツクシが食べられるから摘むのではなく、摘むのがおもしろいから摘むのだろう。摘んだあとどこかに忘れ置かれ、小さな束になったまま干からびているのも可愛らしい。
ツクシを食べるにはたくさん摘まなければならないし、摘んだあとにも茎の節にある鞘【さや】(はかま)をはぎ取るのがかなりやっかいだ。でも、それをのりこえて料理して食べると、なかなかいけるのである。
春先に地面を突いて出てくるツクシはスギナの胞子茎【ほうしけい】で、胞子を飛ばし終わるころになるとスギナが出てきてあたり一面を鮮やかな緑でおおう。スギナはトクサ科で、主軸の各節から棒状の葉を輪生【りんせい】させる。この棒状の葉にも節がある。子どものころ、スギナをとって葉を節のところからはずし、またもとどおりに差し込んでおいてから、どこではずれているかを当てる遊びをしたものだ。ツクシやスギナは子どもに近しい植物だ。
スギナは退治しにくいやっかいな畑の雑草でもあるが、陰干したものは利尿や咳【せき】止めの効果があるという。

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説明

西岡 直樹 (著)・西岡 由利子 (イラスト)
単行本:224ページ
出版社:平凡社
ISBN-10:4582835600
ISBN-13:978-4582835601
発売日: 2012/2/26