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香りの王者-クチナシ 梔子

クチナシ言問い通りの歩道わきに置かれたプランターから、クチナシが枝をのばし、初夏の光に葉を輝かせていた。通り過ぎざまに服の裾が枝をはじいたのか、パシッと音がして大きないもむしが歩道に落ちた。鮮やかな緑色をしたいもむしは、アスファルトの上で行くべき方向をさぐるように頭を振りはじめた。クチナシの持主には悪いが、私はとっさにいもむしを拾って、プランターに返した。そんな小さな木を生の営みの場にしていたいもむしをそのままにしていくのは忍びなかったのである。クチナシにつく緑色のいもむしだから、そのいもむしはきっとオオスカシバという蛾の幼虫だろう。

六月に入ると、クチナシは咲きはじめる。谷中の墓地にはクチナシが多い。一重のもの、シデ咲きのもの、八重のもの、小形のコクチナシなど、いろいろな品種のクチナシが植えられている。その清んだ匂いが梅雨の重い空気を軽やかにしてくれる。八重咲きの大きな花は、とくに匂いが強い。厚みのある花びらは、咲きはじめは白く、しだいに黄色みをましてくる。その色の変化は、匂いの移ろいと似ているような気がする。最近は一重のクチナシはあまり好まれないのかあまり目にしないが、谷中の墓地には多く、度々目にするうちに一重のものも美しいと思うようになった。清楚でしかも彫金細工のようにキリッとした形をしている。岡倉天心の墓前に植えられていたのはコクチナシだろうか、小形で花冠の切れ込みが細く、かわいらしい形をしていた。
一重のクチナシは静岡県以西の本州から四国、九州、台湾、中国、フィリピンにかけて自生している。小学生の頃一時期を過ごした宮崎県の山にもクチナシは生えていて、オレンジ色の実をみつけると薬になるというので使う当てもないのに採ったりしたものだ。それにしても、クチナシとは変な名前だとその頃から思っていた。

クチナシクチナシは実が開裂しないから「口無し」という説、また、ヘビのことを「朽縄」といい、ヘビイチゴをクチナワイチゴとも呼ぶように、ヘビが好む梨としてクチナワナシと呼ばれていたのが転じてクチナシとなったという説。また、谷中の墓地に眠る牧野富太郎博士は、細かい種子のある果実をナシにみたて、それに宿存性の嘴状の萼があることをクチと呼び、クチを具えたナシの意味であると書かれている。多くの説があり、やはりそう簡単にはいいきれず、子供の頃に変な名前だと思ったのも無理のないことだと思う。

牧野富太郎博士は、さらに、この花を一名センプクと呼ぶことが仏教の書物に出ていると書かれている。しかしこの瞻蔔迦と言うのはクチナシのことではなく、サンスクリット名のチャンパカ-campakaを漢字で音写したもので、キンコウボク(金香木)をさす。キンコウボクは、インド~ミャンマーに生えるモクレン科の高木で、こちらもクリーム色のなんともよい香りの花を咲かせ、インドではチャンパー、タイではチャンピーの名で親しまれている。また仏が好む花としてよく仏前に供えられる。本物のチャンパカにひけをとらないクチナシを選んで、センプクの名をあてたのだろう。八重のクチナシは、インドにもあって、匂いのよい花として好んで庭に植えられ、ベンガル語でゴンド・ラージ(香りの王者)と呼ばれている。

クチナシ(この記事は季刊誌谷根千87号に掲載したものです)

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沙羅双樹いろいろ

沙羅双樹JR日暮里駅南口から谷中霊園の方に上がってすぐ右手にある天王寺の境内に、沙羅双樹と書かれた一本の美しい木が植えられている。花はすでに終わっていたが、枝の先の方には若い実をつけた長い花序がついていた。また、千駄木一丁目にある、鴎外が長い間文学活動を続けた居宅観潮楼跡地(現文京区立本郷図書館)の庭にも、鴎外が愛した沙羅の木が植えられる。
平家物語の冒頭に出てくる沙羅双樹という美しい名をもつ木は、じつはインドに生えるフタバガキ科の常緑の高木で、仏教徒の間では、仏陀がこの世を去るときにその下に身を横たえたという涅槃の木として知られている。インドではサンスクリット語でシャーラと呼び、それが漢字で沙羅と音写され、中国を経て日本に伝えられたのだが、仏陀が身を横たえたのは、二本のシャーラの木の間だったので、沙羅双樹と呼ばれるようになった。仏教徒にとって、もっとも尊い木のひとつである沙羅双樹に馳せる思はひとしおである。とはいえ、もともと熱帯の木なので、日本のような冬の最低温度が五℃を下るような地では育たない。そこで、仏典を通して伝えられるシャーラのイメージに合った温帯の木を沙羅として植え、仏陀をしのんだのだろう。
沙羅として寺院によく植えられている木は、たいていツバキ科のナツツバキであり、観潮楼跡地の庭にある沙羅も、ナツツバキである。だが、天王寺の沙羅双樹はちょっと違って、葉や葉柄の形、枝先から伸びる花序のようすから、エゴノキ科のハクウンボクではないかと思う。オリジナルのシャーラの花を思い浮かべると、大きな花を数個つけるナツツバキよりは、小さな花を連ねてつけるハクウンボクのほうが似ていて、ハクウンボクを沙羅双樹の代理にした人のセンスに拍手を送りたくなる。しかし、葉の形に着目すると話はまた違ってくる。シャーラは、葉の形が馬の耳に似ているというので、アシュヴァカルナ(馬耳木)の別名をもつほどだが、その点では、大きさはずっと小ぶりだがナツツバキの葉は確かにシャーラの葉に似て、馬の耳のような形をしている。

沙羅双樹インドのべンガル地方の平地林で、はじめてシャーラの花を見たときの感激は、三十五年もたつ今も忘れない。林下は強烈な春の光と甘い香りに満ちあふれ、開いたばかりの赤みあるつややかな新葉をぬって、ちらちらと止めどなくなく降り注ぐ白い花は、まるで天の神が降らせる花の雨のように思われた。しかし、その聖木も、村人たちにとってはとても便利な木で、その葉は、綴じ合わせてご飯を盛る皿としたり、くるりとまるめて汁ものや酒をつぐ椀にしたり、結婚式などのような人集まる場所の食事や、駅の飲食店などで日常的に使われている。そして、その幹からとれる樹脂は、ドゥーニーと呼ばれ、薫香として毎夕ヒンドゥー教徒の家々で焚かれるのである。この樹脂はサンスクリット語でサルジャラサ(薩折羅沙)といわれ、白膠香(はくこうこう)と漢訳されて伝えられている。また、堅くて狂いのない木材も、建築や家具材として人気が高い。

(この記事は季刊誌谷根千86号に掲載したものです)

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タラヨウ

家内が急にタラヨウの葉のイラストを描かなければならなくなった。谷中の墓地にならタラヨウはあるかもしれないと思って、二人して出かけた。このあたりにないだろうかと、谷中霊園管理事務所の前にたたずんで見渡すと、「塩谷宕陰先生碑」と書かれた大きな石碑があり、そのわきに、つやのある分厚い葉をつけた木があった。「もしかしたらあれが・・・」と、近寄ってみると、葉は両わきが直線に近い長楕円形をしており、へりに独特のとがった堅い鋸歯がある。それが、タラヨウであることをものがたっていた。もっとわかりやすいタラヨウの特徴は,葉の裏を傷つけると、その部分が褐色に変化して残り、字や絵が書けることだ。さっそく、そばにあった小枝で葉の裏をかるく掻いてみると、そのあとは黒ずんだ褐色の線になった。私たちは、あまりに事が簡単にはこんだことに、笑ってしまった。

タラヨウは、高さ二十メートルくらいになるモチノキ科の常緑高木で、静岡県以西の暖地の山林に生える。雌雄異株で、春の四、五月ごろに、葉のわきに淡い黄緑色をした四弁の小さな花をむらがりつける。そして、晩秋から冬にかけて、その枝先に目も覚めるような朱色の実をたわわにつけるのだ。その実の色とつややかな葉との対比が美しいので、タラヨウは庭木としてよく植えられるが、やはり関東地方には少ないのか、そう頻繁に目にする木ではない。
その石碑のもとに植えられたタラヨウは、かなり年月は経っているようだが、剪定を繰り返されたのか小さくまとまり、枝には実がついていなかった。ほかにタラヨウの木はないだろうかとストーパ型の慰霊碑のほうに足を進めると、高く梢を伸ばし、枝を広げたタラヨウの木があった。まだ赤くなってはいなかったが、枝の先にはぎっしりと実がついている。その木をスケッチすることにした。

タラヨウの名は、その葉の裏に傷をつけると字がかけることによっている。インドにはサンスクリット語でターラ、ヒンディー語でタールと呼ばれるヤシ科の木がある。学名Borassus flabellifer、日本語でオウギヤシ、パルミラヤシなどと呼ばれる木だが、インドでは古くはこの葉を乾燥して横長の長方形に切り、その表面を鉄筆などで傷つけて辰砂や墨などを擦り込んだり、葦ペンで文字を書いて経文などを書き記していた。そのターラの名は多羅と漢字に音写され、仏典をとおして古くから日本にも伝えられている。そのターラにちなんで、日本のこのモチノキ科の木は、タラヨウ(多羅葉)の名で呼ばれるようになったのだろう。東京国立博物館の法隆寺館には梵本心経と尊勝陀羅尼経が墨書きされた貝多羅葉が展示されている。この貝多羅葉(貝多羅は葉を意味するパッタラの漢音写で、ターラの葉をさし、転じて書簡を意味する)はグプタ後期(七~八世紀)のものだとされ、世界最古の部類にはいる貝多羅葉だといわれている。

そのオリジナルのターラの木は、北インドではごくふつうに生えている。貧乏な人にとってはその葉が便利な屋根材になっていた。私が仕事でよくいくインド東部のベンガル地方では、四、五月の花序がでるころにその先をけずって樹液をあつめ、美味しいターリー(ヤシ酒)をつくったり、煮詰めて砂糖をつくったりしている。雨季(八月)に熟すオレンジ色をした果肉からもおいしい菓子がつくられる。お酒にあまり強くない私は、その季節になるとひとりでにご近所から集まってくるタール・プルリというその菓子が、今では楽しみのひとつになっている。

東京国立博物館の法隆寺館蔵梵本心経(模写:西岡由利子)
(この記事は季刊誌谷根千85号に掲載したものです)