工房の藍は、はなだ(縹)色。
インドのアナンダ工房で育てた木藍で藍染めをしています。
タネから育て、収穫し、泥藍をつくって藍建をしました。
あの小さな葉っぱから・・・信じられない美しい色味です。感激!!
昔、母が好きだったはなだ(縹)とは、どんな色だったのかと思っていましたが、こんな美しい色が染まると、この木藍の色を縹といったのではないかと、勝手に思いを馳せてしまいます。これから染めた糸を直樹さんが機にかけます。
工房の藍は、はなだ(縹)色。
インドのアナンダ工房で育てた木藍で藍染めをしています。
タネから育て、収穫し、泥藍をつくって藍建をしました。
あの小さな葉っぱから・・・信じられない美しい色味です。感激!!
昔、母が好きだったはなだ(縹)とは、どんな色だったのかと思っていましたが、こんな美しい色が染まると、この木藍の色を縹といったのではないかと、勝手に思いを馳せてしまいます。これから染めた糸を直樹さんが機にかけます。
お客様の注文を受け、沙羅双樹染めの、各色各素材の袱紗を作りました。
一つずつ丁寧に手織り手染め、手縫いで仕上げました。品があり、
とても美しい作品ができました。
モスリンは、日本では和服に用いられた薄手のウールとして知られていますが、元々この言葉は、西洋の人々がイラクのモスルの極細綿布をさして呼んだのが始まりのようです。
ヨーロッパによるインド航路発見行以降、ベンガルの極細綿はモスリンの名で17世紀初頭頃からに世界各地に運ばれ、絶賛されました。マリーアントワネットもこのモスリンのペチコートドレスを愛用していたようです。
インドの木綿の歴史は古くこれより遥か昔、仏がカーシー(バラナシー)の上質な薄い綿の衣を好んでいたことが仏典に書かれています。このことが、紀元前5世紀にはすでに細かい綿布が、モスリンと呼ばれる前にインドで作られていたことを物語っています。
現在インド・ベンガルの織師は、手紡ぎ手織り綿(カーディー)の中で150番手以上の極細綿布をモスリンと呼んでいます。それは、機械織りの薄い綿布とは確かに違って、この上なく綿密、滑らかで、まるでミルクのような優しい感触です。
イラクの都市モスールで織られた、またはそこに集積され、輸出された平織の綿布を、イギリスでモスリンと呼んでいたということです。ひじょうに繊細で滑らかな肌触りのその平織の布は、王侯貴族の間でもてはやされ、マリ―アントワネットのペチコートにも使われていました。
インドでは、ダッカ(今日のバングラデシュ首都)周辺の都市や、ムルシダバード県(インド西ベンガル州)周辺で織られていた超極薄の綿布をモスリンと呼び、土地ごとにその繊細さを誇るさまざまな名前のモスリンが織られていました。マルマルカーシュという名のモスリンなどは、一 枚のサリーを指輪に楽に通す事ができるほどの薄さだったということです。18世紀半ばから19世紀初頭の産業革命以降、英国産の機械織の綿布に押され、大変な手間と技術を要する手織りのモスリンの生産は長らく途絶えていましたが、近年細々ながら生産が再現されるようになりました。王侯貴族たちが求めたあの軽やかな着心地を味わうことができるよう、私たちも努力しています。(写真:モスリン200カウント羽織もの アップリケカンタ)
綿を紡いでいるスタッフのポラーシュ君。工房では、糸紡ぎをして素朴な布をつくっています。右写真はポラーシュくんの手紡ぎ糸で織ったアナンダ工房オリジナルの羽織りもの。
大好きなインド西ベンガル州の山繭タッサーシルクを和墨で染めました。色が落ちなくなるまで、布を傷めないように優しく限界まで洗いました。するとタッサーの個体により墨の染み込み方が違い、意図もせず、美しい天然の縞が現れました。
タッサーシルクの糸を染め、服のデザインに合わせて織りました。