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サンヘンプ

サンヘンプジャケットSann Hemp マメ科
サンヘンプは、インド-アジア南部原産の一年草で、高さは人の背丈くらい。葉は三枚の小葉からなる複葉で、枝分かれが少ない茎を真っすぐに立て、秋に茎や枝の頂に美しい黄色の蝶形花を総状花序に付けます。日本では、土に酸素を取り込む緑肥作用の植物として知られています。茎からは丈夫な繊維が取れ、インドの村では、ヤギや牛など、家畜をつなぐロープを作ったりします。サンヘンプで作ったりロープはつながれた家畜の首を傷つけることがないので、ほかの繊維で作ったロープより重宝がられています。ベンガル人の友人のアニスルさんの仲間が布に織ってみました。亜麻とジュートの中間のような手触りで、涼しげなパンツ、シャツ、ジャケットができました。

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サンタルポト

サンタルポト

サンタル絵巻-インドベンガル地方
この無垢であどけなく、原初の生命感にあふれた生きものたちの図は、サンタル・ポテゥアと呼ばれる不思議な絵師たちによって描かれたものです。彼らは、インドの西ベンガル州からジャールカンド州にかけて広がる沙羅双樹の森の近くに住んでいます。自分たちはベンガル語を母語としながら、同地方に住むサンタル部族民の言葉を上手に話し、サンタル人の神話を絵巻物にして絵解きをして歩くのを代々の生業としています。森の住民である彼らが描く身近な同居人の動物や鳥たちは、みな尊厳に満ち、愛らしく、描かれます。この絵をみていると、彼らの住む森(ジャングル)に引き込まれてしまいます。

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夕やけだんだんの大藤

日暮里駅西口の藤日暮里駅西口: 
何度も通っているのに花が咲くまで、そこにこんなに立派な藤があるなんて気付かなかった。夕やけだんの階段手前左側のお宅の石垣の中から、張り出すようにビワの木が生えている。その木にからんで立ち上り、さらに向こう側の桐の木をつたって這い上がる。こんなに伸びやかな藤は都会ではめずらしい。まるで房総の山に咲く野生の藤のようだ。桐の木がもっと伸びてくれれば、天にまで伸びたいと言わんばかりだ。

花房が長いところを見ると園芸種だろう。夜店か何処かの植木屋さんで売られていた小さな苗がここまで育ったのではないだろうか。自由奔放に生ている姿を見を見ると、“誰に遠慮はいらないよ”と言われているみたいで、あたり一帯が居心地が良い。

これは、ここだけのの話だけれど、夕焼けだんだん入り口の犬やさんのご主人は、40年以上前からほとんど変わらない。ご本人に、お父さんはお元気ですかと尋ねたら、それは私です。と答えた。彼は、お化けのように年をとらない。

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芋坂のコバンソウ

koban幕末の上野戦争で彰義隊の撤退口になったという芋坂は、むかし寛永寺から王子街道や日光街道にぬける山道で、山芋が採れたそうだ。坂の下には団子屋があり、音無し川が流れていた。

その羽二重団子は今も繁盛している。醤油の団子は、どこのより比べ物にならないほど美味い。
コバンソウは、のどかだった昔の野原の面影を残すように、毎年丘の上のあちこちに群生して生える。残念ながら小判を付けた後すぐに刈られてしまうが、それでも負けずに今年も生えてきた。けな気なやつだ。

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谷中の妖精

ヒメオドリコソウヒメオドリコソウ:
今年もこの季節が来たのかと、ハットさせられる。すそが緑、頭が紫、そのグラデーションがなんとも美しく、オシャレだ。おまけに頭の帽子に羽飾りのように、淡いピンクの花をいくつか付けている。まさに踊り子か、それとも春のただ中だけに現れる妖精のようだ。一年のほんの一瞬、気付かなければすぐに消えてしまう美しさだ。

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上野のシャガ谷

シャガシャガ:
4月も半ばになると、暑くも寒くも無い。上着を着ないで自転車で散歩に出かけた。谷中、寛永寺、黒田記念館、上野公園。いたるところでシャガが咲いている。いま頃は、千葉の家のそばの九十九谷でも、このアイリスのようなかわいい花が、一日一輪づつ人知れず咲いていのだろう。
そういえば谷中や上野も房総の山と環境が似てないでもない。上野の山は大昔、東京湾に突き出た小さな半島だったそうだ。房総半島の山奥ように、ここでも木陰や谷の斜面に咲いていたのだろう。近年誰かが植えたものだとしても、この土地に合ったものを良く選んだものだ。そんなシャガは時代に負けず、強く美しくてとてもえらいと思う。

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沙羅双樹いろいろ

沙羅双樹JR日暮里駅南口から谷中霊園の方に上がってすぐ右手にある天王寺の境内に、沙羅双樹と書かれた一本の美しい木が植えられている。花はすでに終わっていたが、枝の先の方には若い実をつけた長い花序がついていた。また、千駄木一丁目にある、鴎外が長い間文学活動を続けた居宅観潮楼跡地(現文京区立本郷図書館)の庭にも、鴎外が愛した沙羅の木が植えられる。
平家物語の冒頭に出てくる沙羅双樹という美しい名をもつ木は、じつはインドに生えるフタバガキ科の常緑の高木で、仏教徒の間では、仏陀がこの世を去るときにその下に身を横たえたという涅槃の木として知られている。インドではサンスクリット語でシャーラと呼び、それが漢字で沙羅と音写され、中国を経て日本に伝えられたのだが、仏陀が身を横たえたのは、二本のシャーラの木の間だったので、沙羅双樹と呼ばれるようになった。仏教徒にとって、もっとも尊い木のひとつである沙羅双樹に馳せる思はひとしおである。とはいえ、もともと熱帯の木なので、日本のような冬の最低温度が五℃を下るような地では育たない。そこで、仏典を通して伝えられるシャーラのイメージに合った温帯の木を沙羅として植え、仏陀をしのんだのだろう。
沙羅として寺院によく植えられている木は、たいていツバキ科のナツツバキであり、観潮楼跡地の庭にある沙羅も、ナツツバキである。だが、天王寺の沙羅双樹はちょっと違って、葉や葉柄の形、枝先から伸びる花序のようすから、エゴノキ科のハクウンボクではないかと思う。オリジナルのシャーラの花を思い浮かべると、大きな花を数個つけるナツツバキよりは、小さな花を連ねてつけるハクウンボクのほうが似ていて、ハクウンボクを沙羅双樹の代理にした人のセンスに拍手を送りたくなる。しかし、葉の形に着目すると話はまた違ってくる。シャーラは、葉の形が馬の耳に似ているというので、アシュヴァカルナ(馬耳木)の別名をもつほどだが、その点では、大きさはずっと小ぶりだがナツツバキの葉は確かにシャーラの葉に似て、馬の耳のような形をしている。

沙羅双樹インドのべンガル地方の平地林で、はじめてシャーラの花を見たときの感激は、三十五年もたつ今も忘れない。林下は強烈な春の光と甘い香りに満ちあふれ、開いたばかりの赤みあるつややかな新葉をぬって、ちらちらと止めどなくなく降り注ぐ白い花は、まるで天の神が降らせる花の雨のように思われた。しかし、その聖木も、村人たちにとってはとても便利な木で、その葉は、綴じ合わせてご飯を盛る皿としたり、くるりとまるめて汁ものや酒をつぐ椀にしたり、結婚式などのような人集まる場所の食事や、駅の飲食店などで日常的に使われている。そして、その幹からとれる樹脂は、ドゥーニーと呼ばれ、薫香として毎夕ヒンドゥー教徒の家々で焚かれるのである。この樹脂はサンスクリット語でサルジャラサ(薩折羅沙)といわれ、白膠香(はくこうこう)と漢訳されて伝えられている。また、堅くて狂いのない木材も、建築や家具材として人気が高い。

(この記事は季刊誌谷根千86号に掲載したものです)

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カーディーのブラウス

カーディー

カーディーのブラウスカーディー, Khadi, khaddar 手紡手織綿布
ヒンディー語で手紡ぎ手織りの綿布をカ-ディ-と呼んでいる。もともと綿の生産地であったインドは、英国の支配下、綿を栽培する農民でさえ英国産の機械織綿布を着用するに至った。だが1909年ころ、インドの自治と農村手工芸の発展を推奨したガンディーは、英国に対抗して自国産の手紡ぎ手織り綿布を着用することを呼びかけた。そんなわけでカーディーはインド独立の象徴の布となったが、実際に手で紡がれ織られた布たちは、母の懐のようにやわらかく、暑い夏に涼しい。近年あらためてその素材感と着心地の良さが見直されている。(写真は千葉の工房にて)

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ラックカイガラムシ染め

ラック染めブラウス
ラックカイガラムシ染めのブラウス
春色スカーフ
春色スカーフ
ラックは、サンスクリット語で10万と言う意味で、数え切れないほどたくさんと言うところから呼ばれたようだ。ラックカイガラムシは、ハナモツヤクノキ、イヌナツメやビルマネムなどの樹の枝先に包むようにびっしりくっつき、樹脂を吸い取る。インド、ラダック、中国南部、東南アジアで採れる。インドでは古代から布の染色、画用染料、塗料、装身具(腕輪)、封印用の樹脂として採取されていた。 染色では、濃く染めれば臙脂色、淡ければ青みがかったったピンク、桜色に染まる。南米のカイガラムシ、コチニ-ルには青味がなくスカーレット色をしているので、この二種類のカイガラムシの色合いは確かに違う。画用としては、油彩絵の具のレーキー(Lack Lake ラックレーキー)は、この色を素にしていた。インドでは細密画(ミニアチュール)に良く使われ、伝統の画家たちはクリムダナと呼んでいた。石灰下地の上に濃く塗って紫がかった赤、薄く塗ってやはり青みのピンク色になる。ラックカイガラムシを煮出して染料を抽出した後に残る樹脂がシェラック(Shellac)で、塗料になる。これを何度も塗り重ねて高級家具や英国王室の馬車が艶やかな臙脂色に仕上げられた。 江戸時代、日本には友禅などの染用及び画用として、主に中国から輸入されていたようだ。円形の綿に染ませて乾燥させた臙脂綿が、東京根津の日本画材屋さん、得応軒に今も残されている。数年前に大江戸博物館で催された円山応挙の展覧会では、画箱が展示されていた。応挙が日常的にに使っていた岩絵の具、泥絵の具の中に、確かに臙脂綿があった。臙脂色とはまさにこの色を濃く染めた色のことを言うのではないだろうか。小学校のころ使っいた水彩絵の具のエンジ色はあまり好きではなかったが、このラックカイガラムシの臙脂色は心から美しいと思う。